ゼロ年代の批評の地平

友人からリクエストがあったので、今更ではありますが、去年のクリスマスに紀伊國屋ホールで催されたトークイベント『ゼロ年代の批評の地平』の概略をレポートします。このイベントは昨年11月に青土社から刊行された書籍『波状言論S改』の発売を記念したもので、パネリストは批評家の東浩紀社会学者の北田暁大切込隊長こと山本一郎精神科医斎藤環、さらには客席のほうに宮台真司もおりました。

知らない方もいらっしゃると思うので、まず『波状言論S改』について説明しておくと、これは東浩紀が2004年に発行していたメールマガジン波状言論』のなかから社会や政治に関連した鼎談を選り出して書籍化したものです。掲載されている鼎談は3つで、東浩紀鈴木謙介が毎回ホストを務めてます。1つめの鼎談のゲストは宮台真司で、テーマは「脱政治化から再政治化へ」、2つめが北田暁大で「リベラリズム動物化のあいだで」、3つめが大澤真幸で「再び「自由を考える」」。この本での議論や、ised@glocomでの活動を請けながら、日本の政治や社会の現状を精査し、ゼロ年代における批評の可能性を探るというのが、このトークイベントの主旨です。

ほいで内容ですが、実はそもそもメモが不充分で、なおかつ記憶もすでに曖昧なので、正確な文句を一言一句もらさず記すなんてことは到底できそうにないです。ですから、まことに勝手ながら、僕の独断と偏見で議論を整理し再構成してみたいと思います。

さて、最初に確認しておかなければならないのは、パネラー各氏のあいだには、ある共通認識が成立しているということです。その共通認識とは、現在の日本社会はネット上を中心にネタ的コミュニケーションが蔓延しているということです。ネタ的コミュニケーションというのは、コミュニケーションの内容が問題になるのではなく、コミュニケーションそのものが目的となるような、コミュニケーションの形式です。言い換えれば、情報を伝達することが目的なのではなく、情報の伝達によって繋がることそのものが目的となるようなコミュニケーションの様式です。

身近な具体例を出せば、バトンを回すという行為があります。お酒バトンや思い出バトン、コミックバトンや結婚バトンなど、SNSやブログにおいて流通しているバトンにはさまざまなヴァリエーションがありますが、このバトンというものは、それを回すことによって他人との繋がりを実感するのが目的であって、「お酒」や「思い出」、「コミック」や「結婚」といった内容はさほど重要ではありません。つまりバトンを回すさいに大切なのはあくまで他人と繋がることであって、その内容は繋がるための口実=ネタにすぎません。このように、伝達される情報内容の価値が減退し、情報の伝達によって他人と共感することが目的となったコミュニケーションを、ネタ的コミュニケーションと呼ぶわけです。

そうしたネタ的コミュニケーションがはびこる社会のなかで、いったいどのような政治が可能であるのか。それが今回のトークセッションの大きな焦点だったように思います。ナショナリズムにせよ、リベラリズムにせよ、なにを語ろうとも、それが他人と繋がるためのネタとして消費されてしまう状況のなかで、いったいわれわれはなにをどう語るべきなのか。この問いを巡って、さまざまに議論が入り乱れました。

その議論のなかで、ネタ的コミュニケーションの政治的な問題点が、2つほど指摘されていたように思います。1つは、ネタとして消費されている言説を、ネタとしてではなく本気の態度表明として理解してしまう人がいること、もう1つは、ネタ的コミュニケーションを行っている人たちは、ポピュリズム的な情報戦略に容易く迎合してしまうことです。

まず前者について、もうすこし詳しく論じてみましょう。たとえば去年、ネット上では嫌韓や反中の嵐が吹き荒れました。その余波で『マンガ嫌韓流』や『マンガ中国入門』などがスマッシュヒットを飛ばしました。現在でも2ちゃんねるなどを見れば、韓国、北朝鮮、中国にたいする否定的な発言が、山のように見つかります。この状況を表面だけ掬い取れば、日本の若者は右傾化し、保守化しているように見えます。

しかし、そうした保守化や右傾化は、あくまで表面的なものであり、ネタ的コミュニケーションという観点を導入すれば、ネット上のナショナリズムの台頭は、他人との繋がりを得るための方便にすぎないことになります。このことは、リベラリズムの立場から発言を行っていた北田氏だけでなく、保守的な立場にある山本氏も指摘していました。山本氏によればネット上のナショナリズムは「保守ではなく、あくまで保守的態度にすぎない」のだそうです。

けれども、ネット上のナショナリズムがネタにすぎないのは確かだが、それをネタとして理解してくれない人がたくさんいるのではないか。そう反論したのが東氏でした。ネットをそれほど利用しない日本人や、2ちゃんねるの存在すら知らない外国人にとって、ネタとして交わされている保守的な言説は、ネタとして機能しないのだから、かなり危ない状況だと言えるのではないか。そういう危惧を東氏は何度か表明していました。

さて、それではついで、2つめの論点について見てみましょう。つまりポピュリズムの問題です。ポピュリズムとは、簡単にいえば、カリスマをもつ権力者が大衆の利益になるように見える政策を大衆にも分かり易い仕方で提示し、それによって多くの支持を集めるような政治戦略のことです。ネタ的コミュニケーションを行っている人たちは、そうした政治戦略に気軽に便乗してしまう危険性を孕んでいます。

どうして、そういうことが言えるのか。これに答えるためには、ネタ的コミュニケーションが成立する社会基盤を問いなおす必要があります。ネタ的コミュニケーションが隆盛を極めるようになった背景には、社会のなかで誰もが等しく共有している共通の価値観というものが崩壊してしまったという現状があります。これは宮台真司の言葉でいえば社会の底が抜けているという状態であり、東浩紀の言葉でいえば大きな物語が失墜した状況です。社会の底がきちんと存在し、大きな物語がしっかり機能しているならば、人々はなにをせずとも他人と阿吽の呼吸で繋がっているような感覚を漠然とながら持つことができます。しかし、そうした阿吽の呼吸を可能にしていた共通の価値観が消失すると、人々は他人との繋がりの根拠をどこにも見い出すことができなくなります。すると人々は他人と繋がりたいという欲望を等しく抱え込むことになります。こうしてネタ的コミュニケーションへの過剰な欲求が育まれるわけです。

大きな物語の失墜した社会においてネタ的コミュニケーションを志向する人たちは、他人と繋がることを至上命題とします。彼らは、底の抜けた社会のなかで、繋がるためのネタを常に探し続けます。そして一旦ネタを見つけたならば、一気にそこに雪崩込み、他人との繋がりを一心不乱に享受します。具体的な事例としては、2002年のサッカーワールドカップの狂乱が挙げられるでしょう。また最近では「のまネコ」問題なども記憶に新しいところです。ネタ的コミュニケーションを行っている人たちは、他人と繋がるためなら、なりふりかまわず一点に集中するという傾向を有しています。つまり、この傾向がポピュリズムとの親和性を示しているのです。

その親和性の結果が、昨年の衆議院選挙での自民党の歴史的圧勝劇でした。郵政民営化、賛成か反対かという小泉首相の分かり易い問題提起にたいし、多くの有権者自民党に票を投じました。そのさいネタ的コミュニケーションが大きな役割を果たしたのは、たとえば佐藤ゆかり議員の扱いを見れば明らかでしょう。「ゆかりタン」などと称して彼女をアイドルのごとく扱う所作は、まさにネット上に蔓延するネタ的コミュニケーションの振る舞いそのものでした。ネタ的コミュニケーションを駆動する繋がりへの過剰な欲求は、このようにポピュリズムへの短絡を容易に招いてしまうのです。

さて、ネタ的コミュニケーションやポピュリズムそのものの是非というのは、簡単に問えるものではありません。ここで重要なのは、むしろ僕らが、つまりインターネットやケータイとともに育ってきた日本の若年層が、現にネタ的コミュニケーションを営みながら生きているということです。そして、ここで問われるべきなのは、そうした社会状況のなかで、どのような政治や批評が可能なのかということです。ネタ的コミュニケーションが無限に反復されていく現状では、ナショナリズムリベラリズムもコミュニケーションを継続させるためのネタとして消費されるにすぎず、結局のところ、なにを語ろうとも現実にはなにも変わらないのではないか。変える力があるとすれば、安易なポピュリズムという方策しか残されていないのかもしれない。しかし、それではやはり危険である。そんな懸念を東氏は再三再四、繰り返していました。

このような漠たる閉塞感が会場を蔽いつつあるなか、最後の質疑応答の段階で、客席にいた宮台氏が発言しました。その発言を僕なりに簡潔に要約してみると、次のようになると思います。社会の底が抜けている状況のなかで、私は天皇亜細亜主義を掲げることによって再び社会の底を築こうとしているが、君たち若い世代はどのような代替物を提示してくれるのか。この発言を東氏は自分の言葉で敷衍して、次のような主旨のことを言いました。宮台さんの戦略は、天皇亜細亜主義といった分かり易いキーワードを打ち出して、ポピュリズム的な方法論に則り、あえて大きな物語を回復させようとする、いわば再近代化の試みだけれど、私はそうした再近代化とは異なる別の道、つまり大きな物語を復活させずに社会を運用していく道が模索できると考えている。そのための明確なヴィジョンはまだないが、たとえば情報技術がさらに発展していけば、もはや議員を選ぶことすら必要がなくなり、国民ひとりひとりが政策自体を選ぶような社会制度が成立しうるのではないか。

さて、曖昧な記憶に頼って記述してきたので誤解や間違いも多分に含まれていると思いますが、とりあえずトークイベントの内容は以上のような感じでした。最後に拙いながらも僕なりに講評めいたことを述べておけば、このイベントから導かれるゼロ年代の批評の課題は、次の2点なのではないでしょうか。1つは人文的なジャーゴンに頼ることなく誰にでも理解できる言葉で語ること、もう1つは現状分析に甘んじることなく積極的に未来を語ることです。

まず1点目についてですが、これは昔から言われていることなので、なにを今更と思われるかもしれませんが、今回のトークセッションを見ていてもっとも印象深かったのは、議論の内容もさることながら、東・北田・斎藤の各氏と、山本氏とのディスコミュニケーションでした。東・北田・斎藤の御三方が人文的なジャーゴンを駆使しながら会話を交わしている横で、山本氏は自分のこめかみをペンでつつきながら不機嫌そうな表情をたびたび顕わにしてました。人文的な知識のあまりない山本氏は、議論の文脈が読めず、ニートは奴隷であるといったトンチンカンな横槍を何度も繰り返していたのですが、終いには我慢しきれずに「イライラする!」と言い放ち、正面切ってケンカを売っておりました。そんな山本氏にたいして、哲学に毒されている僕は逆にイライラしていたのですが、この山本氏のイラつきは批評の弱点を見事に突いていたように思います。つまり批評の言葉はいまだに一般の人にとっては意味不明であるという弱点です。

デリダといった哲学、ルーマンといった社会学、はたまたラカンといった精神分析、こうした人文的な思考装置は、物事を分析するさいにはそれなりに有効な言葉を与えてくれますが、その分析の結果を万人に伝えようとするときには反対に大きな足枷となります。脱構築だ、複雑性の縮減だ、想像界だ、象徴界だ、現実界だなんて言ってみても、そのような言葉の意味が一般の人たちに伝わらなければ実際にはなにも変わらないでしょう。人文的なジャーゴンに頼っていては、結局のところ、批評というシステムをオートポイエーティックに作動させることにしかなりません。それは言い換えれば、批評というシステムのなかでネタ的コミュニケーションを繰り返しているにすぎません。

ヴィトゲンシュタイン風にいえば、批評という特殊な言語ゲームと、一般の言語ゲームとを、いかにして架橋するか。ルーマン風にいえば、批評システムと、その他のシステムとを、どのようにカップリングさせるのか。このような課題を、山本氏の態度は、批評という言説空間に突きつけていたように思います。トークセッションの中盤に、斎藤氏が東氏にたいして「東君はもっとヤンキー的なものに目を向けるべきだよ」とおっしゃってましたが、ゼロ年代の批評家は、山本氏を通り越してヤンキーにまで届くような言葉を、自覚的に作り出していく必要があるのではないでしょうか。でなければ、いつまで経ってもネタ的コミュニケーションの渦中から逃れることができないように思います。これが今回のトークセッションをパフォーマティヴに解釈した場合の教訓なのではないでしょうか。

さて、ついで2点目ですが、これはコンスタティヴな次元の問題です。現代の日本社会においてはネタ的コミュニケーションが氾濫しており、そうした状況に到った経緯には大きな物語の失墜がある。こうした現状分析には、多くの論者が納得しているし、僕も含めた一般の読者や聴衆も賛同している。では、そのような現状を踏まえたうえで、われわれはどうするべきか。この問いにたいして、現在の批評は、なにも答えてくれない。こうした認識は、パネリストだけでなく、会場にいる誰もが共有していたものだと思います。

マルクスの凋落以降、批評は未来を語ることにたいして過剰なほど禁欲的になってしまいました。とりわけフランス現代思想ニューアカデミズムの洗礼を受けてきた東氏や北田氏は、未来や将来を語ることについて抵抗を感じざるをえないように見えますし、実際に抵抗を感じるという発言もなされていました。こうした未来にたいする禁欲的な態度は、鈴木謙介氏も持っているようで、彼は『カーニヴァル化する社会』を次のような言葉で締め括っています。

「いかにしてあるべきか」の前に、「いかにしてあるのか」を徹底して問う、というのが社会学という学問のあり方だとするならば、現在の私たちは誰も「いかにあるべきか」を語りうるほどに、現在についての知識を蓄積していると私は考えていない。である以上、もうしばらくは「いかにしてあるのか」について問い続ける必要があるといえよう。社会的危機が様々な方面から指摘され、「べき論」の溢れる現在だからこそ、そうしたモラトリアムこそが必要とされているのではないか。(講談社現代新書168頁)

未来を論じるまえに、まずは徹底して現在を問う。こうした姿勢は学者としてそれなりに真摯なものであるとは思います。ポストモダン大きな物語の失墜した時代なのだから、未来や将来について語ることは原理上、難しいのかもしれません。しかし、先の見えない、予測のできない時代だからこそ、あえて未来を語ろうとする姿勢が求められているのではないでしょうか。トークセッションの終盤、山本氏がこう述べていました――アカデミズムの使命は未来のヴィジョンを提示することだと。たしかに「どうするべきか」はまだよくわからない。けれども「どうなっていくのか」くらいは明示できるのではないか。ゼロ年代の批評に期待されているのは、現在と過去を見据えつつ、あえて未来を語ることなのだと思います。それが僕らにとっての希望なのではないでしょうか。